「国産ジーンズの発祥の地」として、また「ジーンズのふるさと」としてマスコミにも多く取り上げられています。
さらに近年では、欧米の有名ショップなどへの販売を伸ばし、海外でも評価を高めている注目の産業です。
この岡山県のジーンズ、岡山県ならではの伝統技術により独自の発展を遂げ、高い付加価値を生み出し世界をリードしています。
地名が物語る岡山ジーンズの起源
岡山県倉敷市児島(旧児島市)。ジーンズづくりが盛んな理由は、戦国時代にまで遡ります。
当時岡山一帯を治めていた戦国武将、宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)による岡山城・城下町普請と同時に、農地確保の目的から大規模干拓が行われました。
今から400年以上も前、1583年のことです。
干拓(かんたく)とは、浅い海に囲いをして水を抜き、陸地にすること。
海を干して、土地を拓く、という意味です。
「児島」という地名にも、その昔は海に浮かぶ島で、干拓によって陸地になったということが表れています。
干拓で出来た地「岡山平野」は、塩分が抜けるまでの間、田畑には適しません。そこで、江戸時代に入った頃には、比較的塩分に強い、綿花の栽培が盛んに行われるようになりました。
原料の出荷はもちろん、二次産業としての足袋の生産では、国内シェアのほとんどを占めていました。
時代の変化に追いつけ!
江戸時代の綿花栽培をルーツとして、岡山県の繊維産業は発展、
大正、昭和時代のころ、倉敷市児島では、学生服の生産が盛んになりました。
合成繊維などなかった当時の学生服は、100%綿布。
全国の学生服のほとんどが、綿花一大生産地の岡山県で作られるようになったのです。
しかし、戦後、合成繊維の登場や、学生服需要そのものの低下により、岡山県の学生服生産は、苦境に立たされます。
米兵が残したチャンス
1950年頃、日本では、米兵が残していったジーンズなどの衣料が、中古品として出回り、人気を博していました。戦中、綿でできた衣服はぜいたく品であったため、戦後になり人々の羨望の対象になったのではないか、と言われています。
そこで、学生服不振で伸び悩んでいた児島の綿花を使った二次産業は「次の1手」として、学生服だけでなく、ジーンズを作ることにしたのです。
原材料である豊富な綿花と、足袋生産・学生服生産で培った技術があった
岡山の綿花二次加工業者にとって、デニム生地を作るのは難しいことではありませんでした。
伝統産業が織り成す美しい偶然
かっこいいジーンズに必要なもの。
それは、良質な材料や美しい織り目はもちろん、インディゴ(藍)による色合いや、「ヒゲ」や「アタリ」と呼ばれる色落ちです。
岡山のジーンズ産業は、世にも美しい偶然に見舞われることになります。
瀬戸内の海を超えたところにある徳島県の伝統工芸「藍染め」。
隣県、広島県の伝統工芸「絣(かすり)」。
岡山県から地理的に近い徳島県と広島県が、まさに、良質なジーンズを作るために必要な技術を伝統的に持っていたのです。
藍染めの技術は、ジーンズのフィニッシュ工程である染め・洗い加工に応用できます。この技術により、ジーンズの特殊な染めなどが可能になります。
「かすり」という技術はダメージ加工、ヴィンテージ加工などに応用され、ジーンズに高い付加価値を与えました。
この伝統技術を集積し、1970年代から本格的にジーンズが製造されるようになります。
この日本の伝統技術に裏打ちされた、岡山県児島の良質なジーンズは、国内はもちろんのこと、世界的にも名を上げることになります。
まとめ
岡山県の歴史と風土にオリジンを持ち、今では世界的なブランドとなっている岡山県倉敷市児島のジーンズ産業。
岡山の綿織物、徳島の藍染め、広島の絣の技術と、世界的なジーンズの生産地「OKAYAMA」を支えるのは、日本の伝統的地域産業の集積であることは、非常に面白い点ですね。
日本にはまだまだ、世界に誇る伝統産業がたくさんあります。
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