この燕市に「磨き屋シンジケート」という金属研磨職人の集団があります。
江戸時代から続く伝統的な金属加工技術を活かし、金属研磨技術は世界一。
世界中の人が持つ、あのiPodの研磨も請け負うなど、世界に燕市の名を轟かせています。
独自の風土がつくりあげた金属加工による経済基盤
「磨き屋シンジケート」がある新潟県燕市は、日本一の大河、信濃川流域ののどかなまち。
周辺のまちの産業が米作りなどの農業中心の中、燕市は江戸時代から金属食器製造などの工業に力を入れています。
信濃川の氾濫により、度重なる洪水の被害を受けたため、農業による経済基盤が安定しなかったという背景があります。
400年以上も金属加工産業に関わり、金属洋食器生産の国内シェアは90%以上の燕市。今では世界一の金属研磨技術を持つ「磨き屋シンジケート」まで抱えています。
まずは燕市の金属加工業の歴史からご紹介します。
キッカケは、海外からの要請
燕市の金属加工の歴史は、江戸時代にまで遡ります。古い金属製農機具や寺社仏閣等の古建築で使われる日本古来の釘、和釘(わくぎ)を生産していました。
やがて明治時代になり、洋釘の流通がさかんになったことから、和釘ではなく、鍋や茶釜などの金属製の食器が生産されるようになりました。
大正時代の第一次世界大戦の最中に転機が訪れます。
燕市の持つ加工技術や設備を知ったイギリスやフランスなどの連合国から、スプーンやフォークなどの洋食器生産の要請を受け、業種を転換することにしたのです。
洋食器産業は、アメリカ合衆国へ輸出されたこともあり、経済的に大きく成長。
後に、1959 年のアメリカの輸出規制により、燕市は大きな打撃を受けることになりますが、新たにヨーロッパにも販路を拡大し、危機を乗り切りました。
燕市金属加工業のルーツ「和釘」
金属磨き、なんでも承ります
順調に見えていた燕市の金属加工業及び洋食器製造業は、90年代に入り中国などの新興アジア諸国の台頭により一転、苦しい時期が続くようになりました。
そこで、中国等の大量生産による安価な金属加工品との直接の勝負をやめ、伝統技術に裏付けされた職人ひとりひとりの手による「磨きの技術」を商品とすることにしました。
さらに燕市の金属加工業者は、生産面では1つ1つの事業体を保ちつつも、マーケティングやブランディング面で強みを持たせるために、20社が集まるシンジケートを組み「燕市の磨き屋集団」として世の中に出たのです。
今では、金属磨きならなんでも承る「磨きのプロ集団」と名乗り、活動しています。ものを作り売ることから「技術」を売ることへと転換を図ったのです。
顧客は、製品を磨く最終加工などの法人から、思い出の品をピカピカにしたい。などといった個人まで日本中の金属を、伝統に裏付けられた確かな技術によって丹精込めて磨いています。
きめ細かな泡が立つ、磨き屋シンジケートのビアカップ
磨きの技術は世界一
燕市「磨き屋シンジケート」の磨きの技術は名実共に世界一。
米国Apple社の当時のCEO、故 スティーブ・ジョブズにその腕を認められ、世界中の人が手にしているiPodの背面の鏡面磨きを請け負いました。
最初に請け負ったのは、なんと10年以上も前のこと。
後に世界中の人々のライフスタイルを変えることになるiPodを、命を吹き込むように磨き込む、重要任務を任されたのです。
磨き屋としてのブランドイメージが世の中に認められてからは、独自ブランドとして、チタン製のビアカップなどが売りに出されています。
研磨が非常に難しいチタンも、20社が集まる磨き屋シンジケートなら、その協力体制によって美しいビアカップに整えられ、泡立ちのいい美味しいビールが飲めると評判です。
技術を売ることへの方向転換は、下火になった燕市の金属加工業を復活へと導いたと言えます。
まとめ
江戸時代から続く金属加工技術を武器に、技術を売る「磨き屋」として世界に売り出すことに成功した新潟県燕市「磨き屋シンジケート」。
ものが売れなくなった時代、世界にも売りに出せる確かな技術を持っていることは、大きな強みです。
スプーンやフォークなどのカトラリーと呼ばれる金属食器は、今でも国内シェアは90%以上を誇る燕市の、場所に根ざしたネームバリューを上手く利用した、シンジケートを組んでいることも特筆すべき点といえます。
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【磨き屋シンジケート公式ページ】
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